第10回  「藤岡豊さん」
清水浩二 Koji Shimizu



向かって右 藤岡豊 氏、左 秋田次男 氏

 たしか藤岡さんは昭和二年(一九二七年)六月十九日生まれなので私より少々先輩である。その藤岡さんと私の出会いは一九五六年(昭和三十一年)の一月だったような気がする。一九五六年四月発行の『絵姿女房』のパンフ中の劇団員連名に名前がある以上、『ひとみ座五十年の歩み』中の一九五八年(昭和三十三年)「藤岡豊・・・・参加」は間違いである。他にも間違いは沢山あるが、ここはこれを諭したり証明する場ではないので、差し控えておく。
 それよりも藤岡さんのことだが、生前、彼は自分のことを「"藤の花、豊かに咲けり、岡の上"と覚えて下さい。」などと、ロマンチック好みを表わしていたが、「ひとみ座」では"藤岡兵衛"と呼ばれていた。このニュアンスの違い!

 その"藤岡兵衛"が「ひとみ座に入れて下さい。」と旅先で上演班に話をしてるのを電話で聞いたのは、一九五五年の晩秋。そして旅班から「藤岡さんがOTVに話して人形劇をやれるようにしているので、何をやるのかを決め、その台本をOTVに送った上て、一度打合せに来阪して下さい。」と言って来た。これを聞いて、「藤岡という人、営業センスある。」と私は思った。が、次の瞬間、台本をOTVの太田さんに送るのに舞台の台本ではいけない、テレビ用台本を書こうと思ったが、どう書くのかが解らない。そこで知人を介してNHKテレビの台本を二冊ほど借りて来て、それを参考にして書いた。そしてOTVに打合せに行くと、音楽の吉田ハルナさんを入れての打合せとなったが、「いやあ、東京の人の台本は違います。ちゃんとテレビの台本になっていて・・・」と言われ、冷汗ものだったことを思い出す。なにしろテレビ放送が始まって間もない頃の話であり、我々庶民は街頭でプロレスやボクシングを見たり、テレビのあるお店を捜して見せて貰っている頃のこと。それにしては太田さんというディレクターさんは味なことをする人で、進行役にヴァレリー・モレルという外国の少女を起用していたのには脱帽した。

↑上の写真はOTV「カスパーの冒険」リハーサル中にモニターを見るスタッフと一部出演者。
    向かって左より ヴァレリー・モレルさん、 河向淑子さん、伴通子さん、筆者
←左の写真はOTV「カスパーの冒険」打合せ風景
    向かって左 筆者 右が太田ディレクター
 この「カスパーの冒険」のテレビ放送は大成功で、大阪の人形劇人には衝撃だったらしい。人形劇団クラルテにいた松沢喬君。少し遅れて神戸人形芸術劇場の大隈彰太郎・正秋兄弟が私達の投宿している道頓堀の讃岐屋旅館を訪ねてくれ、自分達の周辺の声を聞かせてくれた。大隈兄弟と松沢君はその時が初対面だったそうで、その後一緒に「ぬいぐるみ劇」を始め、劇団飛行船と演劇センター飛行船を運営していたが、松沢君が早く亡くなって演劇センターは分裂し、今日では劇団銀河鉄道が松沢くんの流れを継いで活動している。また、劇団飛行船も大隈兄弟は引退したが、創立時からの「幼い胸に美しい夢と感動を」をキャッチフレーズにマスクプレイ・ミュージカルを作り送り続けている。藤岡さんの「ひとみ座」入団の折のお土産(テレビ放送)が、思わぬものを誕生させる遠因になっているような気がする。また「ひとみ座」が『ひょっこりひょうたん島』をやるようになる契機を作ったのも、当時『チロリン村とくるみの木』の番組に関係していた松沢喬君の働きがあってのことで、藤岡さんのお土産のOTVの仕事は目に見えないところで貢献しているようである。

 ところで藤岡さんは、ひとみ座に営業がしたくて来たのではない。彼が希望して所属したのは演技部で、事実彼も演技をやっていた。但し、才能は余り芳しくはなかったので、次第に端役の科白担当のようになって行った。でも、一九六一年(昭和三十六年)の人形劇史のエポック・メーキングと言われる『マクベス』にも、藤岡さんは小さい役ではあるが声の出演をしている。私は彼にかなりしつこく「営業に専念してよ。」と迫るが、「営業オンリーは、勘弁して下さいよ。」と逃げられていた。だが、この『マクベス』を境に営業に専念するようになって行ってくれたのである。
 したがって、その前年一九六〇年の一月からスタートした日本テレビ(NTV)の連続人形映画『冒険ダン吉』では、撮影現場にいたし、アフレコのガヤなどでも活躍していた。この『冒険ダン吉』の美術セットのプランと製作には、多才な美術家で当時のひとみ座の客員の一人でもあった矢野眞さんと、矢野さんの友人でその後ニューヨークの美術界で名を馳せたネオ・ダダイズム派のギューちゃんこと篠原有司男さんが"モヒカン"ヘアで大活躍してくれていたし、瓜生良介さん(後に「発見の会」の主宰者となった)もいた。
その人形映画にまつわる藤岡さんの強烈なエピソードを二つ。

「冒険だん吉」のレコード(キングレコード)
作詞・清水浩二(筆者)  作曲・河向淑子


「冒険ダン吉」中の爆発するピストルを右手に持った白人の狩猟家
 一つ目は、ピストル爆発事件。白人の狩猟家がピストルを発射するシーンを撮影の時、私がその白人狩猟家の人形を持ち、藤岡兵衛はその白人の持つピストルの火薬係りだったが、「用意、スタート!」の直後、大音響と共にピストルが爆発し、人形の手とピストルが吹っ飛んだ。私は人形の手管に指を入れず、手管の端をつまむように持っていたので指を飛ばされることはなかったが、ショックで一瞬固まってしまい、声も出なかった。無論、藤岡さんや他の人々も駆けつけてくれ、人体には影響のなかったことを知ると、みんなは初めて大きく息を吐くのだった。そして「生齧(なまかじり)で危険物をいじってはいけない」という教訓が残って、このエピソードは幕である。

 もう一つのエピソードは、藤岡さんが「シナリオを書きたい」と言い出して、私が「一作だけ書きたい物のストーリー・アウトラインを書いてみてよ。それがイケそうなら書いて貰うことにするから・・・」と言ったら、何日かして出来て来た。読んだ印象では辛うじて合格だったので、書いて貰うことにした。でも、初めてだろうからと〆切日は、普通の倍の二週間先としたのだが、期日が来ても連絡がない。そこで彼の自宅へ電話をすると「今、三日目の水曜日半分位の辺を書いているところです。」「どうして今頃になって、そんなことを言い出すのよ。もっと早く、間に合わないかもしれないので・・・位のこと、電話してくれてもいいじゃないか!」「でも、なんとかしなくっちゃ、しなくっちゃ・・・と思って書いてるうちに、こうなったので・・・」「その様子では、今夜徹夜しても出来そうもないから、残りの木曜日の分と金曜日の分は僕が書くことにするけど、水曜終りまでのストーリーは、前に見せて貰ったアウトラインと同じかい?」「はい、同じです。」「違ってたりすると、つながらなくなるから水曜終りの所だけは、アウトラインと同じにしてよ。」と言って、私は徹夜で二日分(木曜と金曜分)を書き、約束の時間に浜町スタジオに行った。そして藤岡さんの原稿を読ませて貰うと、なんとアウトラインと違っているではないか!!「駄目じゃないか!アウトラインと違えないでよって言っておいたのに!これじゃ繋がらないよ。印刷屋さんが来るまで一時間あるから、僕がなんとかやってみる・・・」と言い、やっと入稿できたという次第である。
 このことがあって以来、私は二度と藤岡さんに脚本を期待することはなくなった。
 その代り、彼も自覚したのか営業への傾斜を強めて行った。そんなある日、彼はTBSへ行き人形映画の話を貰って来た。沼津中学時代の学友の井上さんが制作管理係長をしていたこともあって、話はトントン拍子に運んだらしい。横山光輝原作の『伊賀の影丸』の人形映画(週1、30分、52話)である。

でも、このテレビ人形映画は劇団財政を窮迫させ、私と藤岡の二人が「ひとみ座」とサヨナラする引き金となって行ったのである。「人形劇団ひとみ座」は、私が中心で創り「ひとみ座」と命名し、十五年にわたり代表を務めて来た。それだけに私たちはそこを去って良かったのか、悪かったのか?・・・どっちかと言えば、私も藤岡さんも結果的には幸せだったような気がする。私は「ひとみ座」にいては出来なかった様々の人との付き合いや共同作業や、寺山修司作の『人魚姫』(人形・衣装デザイン・宇野亜喜良、人形製作・辻村ジュサブロー、音楽・林光)とか、鶴屋南北作『桜姫東文章』四幕八場(演出・清水浩二、人形・辻村ジュサブロー、装置・粟津潔、音楽・秋山邦晴)のような上演時間三時間三十分の超大型人形芝居も創れたし、観劇には多くの人が詰めかけ、千秋楽の日は通路までギッシリ入れても入れない人が相当数いて、観客係を手伝ってくれていた(後日有名評論家になった)男が、私に注文を付けに来る一幕もあった。
「まだ見えてない杉村春子さんや有吉佐和子さんの席に腰掛けさせても良いんじゃないんですか?」
「いや、まだダメだ。あのお二人は劇団でご招待してあって、まだ開幕まで少々の時間がある。それなのに埋めるなんて出来ないよ。」
「・・・・・?」
また、この『桜姫東文章』の評判を聞いたパルコ劇場からは「いつでもいいし、お金は出すから『桜姫』をうちで再演して貰えないか」と言われたが、お断りしている。無論、パルコ劇場ではその代りに『夏の夜の夢』や『ファウスト』を公演した。『夏の夜の夢』は十四ステージ、『ファウスト』も二十一ステージの提携公演である。
 一方、藤岡さんは、アニメ製作会社「東京ムービー」を設立して、その代表取締役で数々のヒット作品を作っていることは、多くの人々の知るところであろう。因に「東京ムービー」という名前を付けたのは私である。ある夜、寝静まった私の家に午前三時頃電話がきて、「清水さん、会社の名前、何かないですか?」と言うので、「藤岡さんは何も考えなかったの?」「東京シネマにしようと思ったら、既に登録されてあったので・・・」「ああ、そんなら、シネマがダメならムービーがあるさ。東京ムービーは、どう?」「なるほど!ありがとうございました。」
 かくして東京ムービーは始動していったのである。この続きはまたいつか・・・・・


※追記
 一九八〇年頃、麻布十番の天井桟敷へ寺山修司を訪ねて行った時、
「清水さん、僕この間、東京ムービー新社に呼ばれて行って藤岡と二人っきりになったら、『いやあ、寺山さん、ご無沙汰ですみません。いつも心には止めているのですが、遂々忙しくって、どうも、ほんとに…』と薄い髪をなでながらお辞儀をし続けていたところに、女の子が『失礼します。お茶を持って参りました。』と言って入って来ると、急に態度が変わって、椅子にふんぞりかえり、『遅いじゃないか!』と怒った。社長と友人を100%演じ分けるんだね。で、女の子が『すみません。』と退場すると『いやあ、お見苦しいところをお見せして、失礼しました。』とまた頭をナデナデになるんだよ。笑っちゃうね。」

寺山さんが、あの独特の言い方で藤岡さんの近況を語ったことを昨日のことのように思い出す。


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