思い出のキャラ図鑑

           第16回「藤岡豊さんとテレビ人形映画『伊賀の影丸』」
清水浩二 Koji Shimizu

ひとみ座営業時代の 藤岡豊 氏
ひとみ座営業時代の  
藤岡豊 氏 

  ある日の真昼間、南武線武蔵小杉駅近くの藤岡兵衛(藤岡豊氏のこと)のアパートが全焼した。幸い藤岡さんは東京へ営業に行ってて無事ではあったが、家財道具一式は灰と化してしまった。

 私達がそれを知ったのは、帰宅した藤岡兵衛の衝撃的報告を聞いた時である。話を聞いた私達は大慌て。何はともあれ新しい部屋探しから始めた。そしてアッと言う間に、私や宇野小四郎君達が借りていたアパートと空地を挟んで建つ下駄履きアパートに空部屋を発見した。それから寝具や食器や鍋釜などは劇団員のカンパによって揃えた。

 しかし、この火事騒ぎで一番驚かされたのは、藤岡兵衛の物凄い口舌の力を知ったことである。その成果は俗に言う焼太りだが、それが半端でなかったのだ。部屋一杯に新品で高価な物が次々と運び込まれて来て寝るスペースのない有様となったのである。

  この藤岡兵衛が、TBS製作管理係長の井上さんから『伊賀の影丸』の仕事を貰って来た。それが丁度、この火事騒ぎの頃だったような気がしている。一九六三年(昭和三十八年)の五月か六月頃ではなかったか、と思われる。

  テレビ人形映画『伊賀の影丸』は、その年の十月から週一・三十分のシリーズで始まった。
この映画は、以前やった人形映画『冒険ダン吉』とは色々の点で違っていた。

  例えば、シナリオ作り。人形デザイン・製作。人形操演。美術(大道具、小道具)プラン・製作、そして建込み。音楽製作。声の出演などは余り変わらないが、撮影スタジオの借用と管理。映画監督。フィルム編集人と編集機材。カメラマンとその助手とカメラ。映画照明家とその助手と照明機材。スクリプターと助監督。製作デスクと製作進行の人達。それにラッシュ試写の為の映写機とスクリーンの設備など、『冒険ダン吉』では局側でやっていたものも劇団が背負わされた。その上、私は原作者(横山光輝)との版権交渉までやらされたのだ。それも低い予算額の中でである。
  私は心身共にかなりのダメージを受けた。でも作品的には成功し、評判も悪くなかったのが、唯一の救いであった。
テレビ人形映画「伊賀の影丸」
テレビ人形映画 
「伊賀の影丸」 
シナリオは、毎度のことだが宇野小四郎。監督は清水浩二、長浜忠夫。人形は片岡昌。撮影は井上和夫。製作は藤岡豊。音楽は私の友人のいずみ・たく。声の出演は、藤岡の友人黒沢良(声優)さんに協力して貰った。
そして撮影スタジオは大田区南雪ケ谷にあった倉庫を改造した三幸スタジオを借りることにした。

また、予算の関係で、音楽はいわゆる”春夏秋冬”方式でいった。予め使いまわしも視野に入れた八十曲弱のメニューを作り、たくちゃんと打ち合わせをした。そして、一日で録音してしまった。

いずみたく氏と筆者の写真
録音スタジオにて 
向って左より 
いずみたく氏 
筆者 
だが声優のことで躓いた。肝心要の影丸の声優が決まらない。私の感性に合う人が出て来ないのだ。映画の音付けはアフレコだから、まだ日日(ひにち)はあるものの、クランクインが迫って来ているので私は気が気じゃない。
そしてとうとう決められないまま、シュートの日を迎えてしまった。それから三日後、黒沢良さんからスタジオに電話が入って、「まだ中学の女の子ですが、監督さん聞いて頂けますか?」
「はい。」
「じゃ、その子とかわります。」そして瞬時の後、「お電話変りました。藤田淑子です。『伊賀の影丸』の影丸を読んでみます。」
そう言って読み始めたのを聞いた途端、私は「いい感じた!いけそうだぞ!」と感じたが、「もう少しは聞いてあげないと…」と早る心を抑えて聞いた。
そして、トコちゃんこと藤田淑子さんに影丸の声をお願いすることにした。
この時以来、私はトコちゃんとは何本もの作品をやっている。

  『伊賀の影丸』は作品としては成功し、反響を呼んだ。その辺のことを、アニメや人形の映画の評論家である森卓也さんが一九六四年(昭和三十九年)にお書きになった「映画評論五月号」の中から一読して頂けると有難い。


「映画評論」一九六四年(昭和三十九年)五月号より
「国産テレビ・アニメの展望」森卓也 
(※註 4ページになる評論の最後の方900字のみである)

以上の如く『伊賀の影丸』の評判は悪くないのだが、やればやる程劇団からの持出しが増えてゆく。「なんとか手を打たなくては…」と考えた私は、「TBSと掛け合って、もう一本製作費の高い仕事を貰い、その中の一部を『伊賀の影丸』の赤字補填に廻そう」と藤岡さんに言った。

テレビ人形映画『こがね丸』撮影風景
テレビ人形映画『こがね丸』撮影風景
写真向って右がこがね丸キャラ
その後ろが筆者


その結果、入って来たのが『こがね丸』という擬人化された犬が主人公の人形時代劇映画であった。主題歌作詞とシナリオライターには寺山修司、シナリオのみでは山野浩一、竹内健など。監督には岡本忠成、粕三平(但し、第一話の岡本監督は三十分物一本に一ヶ月もかかったので、下りて貰い、私がその代りをやることになった。)音楽は、主題歌も劇伴も山本直純。人形デザイン、製作は田畑精一だった。
この『こがね丸』の撮影が軌道にのった頃、藤岡さんはまたTBSへ出向き、次の仕事の営業を開始した。その結果、手塚治虫の『ビッグX』という企画がTBS側から出され、「人形映画ではなく、セル・アニメーション映画で出来ないか?」と言われたという。藤岡の気持ちはアニメの方へ動いていたらしいが、一応私に相談する形をとった。だから私が「藤岡さんは、元来マンガ映画好きのようだったから、それも良いんじゃないかな。」と言うと、「なんだか清水さんを裏切るようで…」と言いながらも嬉しそうであった。

  こうして出来たのが『東京ムービー』というアニメ映画会社である。その社名は私が付けたことは、第10回「藤岡豊さん」で既に述べた通りである。

  この「東京ムービー」の誕生は余りにも急激だった為、事務所は赤坂TBSテレビ一階奥のスタジオへの廊下右にある広い部屋を借りる形でスタートした。

  一九六四年(昭和三十九年)の六月頃であったような気がする。(登記その他のことは、私には解らない。)その時の会社の顔ぶれは、社長の藤岡豊の他では、製作本部長という肩書きの久保田美昭さん。たしか常務だった高橋澄夫さん。製作の稲田伸生さん、郷田三郎さん。石狩のペンネームの久保田文芸部長(のちに部長は佐野美津男氏)。社長秘書は日銀にいた豊田由紀子さん。社員ではないが出入りしていたアニメ関係者は、角田次郎さん、村野守美さん、木下三さん、出崎統さん、月岡威さん、渡辺和彦さん、岡本光輝さん、鈴木英二さんといった人々だった。少したってからは今泉俊昭さん、波多正美さんなども見かけたし、山野浩一君、小沢正君、大隈正秋君なども参加していたようである。

  TBSのテレビ局舎はたしか八月いっぱいまでいて、事務所はその後、西新宿七丁目のビルに引越した。製作スタジオの方は杉並区成田東四丁目にあった町工場を借りたようである。(このつづきは、またあとで…)



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