思い出のキャラ図鑑

           第17回「五月の詩人 寺山修司さんと最後に会った日」
清水浩二 Koji Shimizu



寺山修二氏の写真
寺山修司氏
  一九八三年の三月上旬、私がアニメ「リトル・ニモ」の仕事でハリウッドへ行くのを聞いた寺山さんは、私に電話をくれて「会いたい」と言って来た。そして渋谷のパルコ・パート2付近の小さな喫茶店で会った。

初めのうち、寺山はいつもの調子で「『ショーガール』面白いと思う?僕は、どこが面白いのか解らない。清水さんはどう?」
「うーん、僕は僕なりに面白いと思ったけど…」

「わかんない。清水さんが一九七七年の夏に西武劇場で『真夏の夜の夢』をやったのも解らなかったけれども…」

 「そりゃ、寺山さんの内にある破壊願望と人間への屈折した愛と美−−−それが求める演劇とは違うからでしょう。『夏の夜の夢』の世界は二重になっていてね、その二つの世界を頻繁に往復しているトリックスターのパックを先頭に、妖精王・オーベロンとタイテーニア女王も往復する。また、人間世界からタイテ−二アの恋のお相手のロバにされて、異なる世界を官能的に体験する職人のボトムなど。−−−混乱が生み出す笑い。おまけに人間同士まで恋人を替える二組(四人)の恋愛ごっこの可笑さ。寺山さんが『話の特集』で言ってた−−−『もはや虚構と現実は対立していない。何が日常的現実で、何が劇場内の現実なのかも解らなくなる。』−−−その寺山思想を演劇化したような作品ですよ。」
劇団人形の家公演「夏の夜の夢」写真 劇団人形の家『夏の夜の夢』
渋谷西武劇場
(現パルコ劇場)公演より
演出・清水浩二
人形デザイン製作・友永昭三
舞台装置・朝倉摂  照明・吉井澄夫
写真左
妖精の女王 タイテーニア

写真下
婚礼の席で劇中劇を演ずるアテネの職人たち
劇団人形の家公演「夏の夜の夢」写真

「とにかく演劇の基本的原理はね、清水さん、出会いだ、と僕は思う。俳優と、言葉と、観客と、複雑に交錯する出会いが演劇にはある。それを清水さんは、どうやってくれるのか…お手並み拝見だったのだけどね…」

「いやあ、参ったなあ。科白を録音した為に、肝心要のそこが出来なくて…それにしても、寺山さんは『”夏の夜の夢”をやるなんて…』と言っていたのに、僕が『”夏の夜の夢”で使う歌作ってくれない?』って言ったらすぐ作ってくれたよね。あれって楽しい詩だったね。

「清水さんと高山さんて、紳士的すぎるよ。映画でも演劇でも完結していればいる程、観る側はシラける。良いようにと思って、親切に優しくしすぎると、人は疲れ果てたりシラケたりしてしまうこともある。」

「寺山さん、あなた逆説的レトリックで私を批判してるの?」

「清水浩二って、作った芝居観ると他人のこと鋭く捕えてるのに、日常生活では他人の心が解らない単なる善い人と化してしまう。」

「誰かが言ってたけど、『寺山修司は不親切風をとても親切にやっている。』って…。僕、同感しちゃったよ。めくらまし的魔術とか寺山的レトリックの奥には『五月の詩・序詞』が息づいてるし、人間への愛が感じられる。」

「ところで、今日、僕が清水さんに『会いたい』って言ったのは、どうしてか解る?」

「そりゃ、それ位は…」と言ったものの、私は一寸緊張した。

「もし僕に何かあったら、岸田理生とやると良い。」
 噂には聞いていた寺山の死が目前なんだ。…清水浩二がロサンゼルスに行ってる間に、もしも…と思った寺山さんは、別れの挨拶に来てくれたんだ。『狂人教育』『人魚姫』『こがね丸』『くるみ割り人形』の台本と”劇団人形の家”の数々の企画書や『清水浩二の人形劇−−−等身大世界の一つの超え方』なども書いて貰った、その天才がもうすぐ消え去るなんて…私は混乱した。

      いまこそ時 僕は僕の季節の入口で
      はにかみながら鳥たちへ
      手をあげてみる
      二十才 僕は五月に誕生した


 寺山さんの大好きな五月。その五月まで二ヶ月もない。
「それじゃ、清水さん…」と言って寺山さんは立上がったので、私も我に帰って立上り、 「わざわざ会ってくれて、ありがとう!」と礼をして別れた。


「狂人教育」の舞台写真
人形デザイン製作・片岡昌
舞台装置・金森馨
照明・吉井澄雄

 そしてその翌々日、私は成田をたった。

 それから一ヵ月半位あとの四月二十二日、「寺山が意識不明となった」という衝撃的な国際電話を受けた。
そして更に、寺山修司が生まれかわった五月、その五月の四日に「寺山さんがお亡くなりになられました。」との報をきいた。
その夜、私は藤岡(東京ムービー新社社長)と二人で、ハリウッドのグローマンズ・チャイナ劇場とハイランド通りの突き当りに聳えるメソジスト教会の間の地下酒場へ行った。その酒場は、ロスの年のいった小父さん達が静かに飲みながらジャズを楽しむバーである。

そこで私達は、寺山の好きだったホレス・シルバーの「Opuos de Funk」(オプォス・ド・ファンク)や「Buha ina」(ブハイナ)などをチビチビやりながら聞いた。私は下戸だけど、水割りを舐めるように少々飲んだ。寺山の言う”血しぶきが飛び散るようなピアノ”に酔いながら…。
そのあとも「1メートル四方1時間国家」と寺山の称したジョン・コルトレーン、寺山が「一度でいいから逢いたかった」と言ったそのジャズの巨匠のニックネームを冠した「Chasin'The Train」(チェイシン・ザ・トレーン)を聞き、クリフォード・ブラウンの演奏するデューク・エリントンの名曲「Take the "A"Train」(A列車で行こう)を聞き終えたところで、アメリカの小父さん達にお酒をご馳走になった。
ロサンゼルスの藤岡邸にて撮影した写真
「ロサンゼルスの藤岡邸にて」
向って左 藤岡豊 氏、右 筆者
(日米合作アニメ「リトル・ニモ」
打ち合わせの合間に撮影)
そして再びジャズを選んだ。セロニアス・モンクの「Blue Monk」(ブルーモンク)と「Raund Midnight」(ラウンド・ミドナイト)そして最後にマル・ウォルドロンの「Fire Waltz」(ファイア−・ワルツ)を聞いて、「グン・ナイ」と小父さん達と別れた。

 それから、深夜のサンセット・ブルバードをロイド(ビバリーヒルズの表辺)の藤岡邸へ急いだ。その途中女達の華やいだ声が聞こえて来た。
と、思う間もなく、娘達五人の車が私達の横に寄り添うように併走を始めた。
「ロールダウン ザ ウィンドー」」と叫びながら手で下へ下へとやっている。
窓を開けると、
「ハーイ。」
「ハーイ。」
「遊ばない?」
「ノーサンキュー」
「私達、綺麗でしょう?」
「オー、イヤー」
「安くしておくよ。」
「ノー、ノー。」と言って私は窓を閉めた。
女達の車は走り去った。

 私は息を吐き、夜空を見上げた。
ロスの空には星が輝いていた。

※追記

  六月二十九日の朝刊を見て驚いた。岸田理生(きしだ・りお)さんが二十八日に大腸ガンで亡くなられた。師匠の寺山修司が肝硬変と腹膜炎で一九八三年五月四日に四十七才で没して二十年と五十四日後、岸田理生は五十七才で寺山の所へ行ってしまった。
 女寺山修司と言われていたが、男の子的な寺山の発想・表現と違い、当然かもしれないが、岸田の作品は慎ましやかでオーソドックス風に見えた。だが、「愛」とか「恋」を扱う時、封印された「怨念」を歴史の闇から手繰り寄せるあたりには、女寺山らしい力技が感じられたものである。
 私は岸田さんの生原稿を見たことがある。各場を示すクリップが、金・銀・緑・白・赤・黒・青の七色を使い美しく、女性らしいセンスを感じたものだ。 寺山さんも岸田さんも心優しい才人であった。


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