第11回  「矢野眞さんとミッちゃん(渋沢道子さん)そして菊岡久利さんの車」
清水浩二 Koji Shimizu


 今は亡き渋沢龍彦さんには三人の妹さんがいて、二番目がミッちゃん(道子さん)である。ミッちゃんは、お兄さんと同じ東大仏文科卒の詩人でバランス感覚が良く、気くばり上手な人である。ご主人は、矢野眞さんというアーチストで、海外でも展覧会等をやっておられる。
 私は、このご夫妻とは今も交流があるが、鎌倉時代の矢野さんは「リラ化粧品」という会社のデザイナーと、私が代表をやっていた「人形劇団ひとみ座」の客員もやって頂いていた。ご夫婦揃って。そんな関係からか、「ひとみ座経営部(営業部)」の連中は一人残らず矢野さんのお宅へお邪魔して、色々お世話になっていたらしい。ご夫婦の温か味あるお人柄に魅かれてのことで、とても有難いことだと感謝している。


矢野眞氏デザインの人形劇団ひとみ座プログラム

勉強会のスナップより(場所は都築元男爵邸の二階ダンスホール)
向かって左が渋沢道子さん、右は宮川晟氏


 その矢野さんから、あれはたしか一九五七年(昭和三十二年)のある日、私は「ファッションショー」の構成・演出を依頼された。主催は「リラ化粧品社」。会場は横須賀市民会館ホール。・・・私は迷った。興味がない訳ではなかったが、経験が全くない。でも、迷った挙句に私は引き受けた。それが、間違いだった。ファッション界の内側や裏を知らないのに、大雑把に"ステージ物"だから演劇や歌謡ショーやバレエ公演などとそう変わらないだろうと一人合点していたのだ。だから、とんでもない目にあった。予想だにしなかったことが次々と起こったのである。
 ファッション・ショーでは、一人のモデルが取っ換え引っ換え何枚かのドレスを着る。すると、それに合わせてヘアやアクセサリーやシューズなども変ることがある。そして楽屋にはそれぞれの担当者(今はスタイリストと呼んでいる)が何人も待機している。殆どが小母さんたちである。この小母さん達に私は手を焼いた。細かいことを異常に気にしていて、モデルを振りまわしていて手放してくれない。その為に出番が狂ってくる。いささか慌てた私が「時間がないので、早くして下さい!」と叫んでも馬耳東風。眼はド近眼になった如く、小さいものや細かいところにトコトンこだわっていく。
 「ああ!もうダメだァ!・・・どうしよう?!」
 私は楽屋からステージ袖へ走った。見ると、ステージ上ではミッちゃんが私の書いたエクスプラネーションやコメントを打合せ通りにアナウンスしてくれている。
 ただ次第に登場するモデルとコスチュームがコメントとは違って来はじめる。「なんとかしなくっちゃ・・・!」ミッちゃんの持ってる進行表とは違いだしてるのだから・・・早く言わなくちゃ。でも、どう変更になっているかを私も100%は掴めないでいる上、掴んだと思っても、忽ち変わってしまう。
 だから私は舞台袖にいて、ただハラハラドキドキしているのみだ。そんな私に用意が出来て出番を待つモデルは話しかけてくる。非道い者は体を寄せて来たりもする。もう私は何が何やら解らなくなり、ボーツとしているうちにショーは終わり、拍手が聞こえて来た。
 私は矢野さんとミッちゃんに会わせる顔がなく、小声で「お疲れさまでした。」と言うと、ミッちゃんは「一寸、予定と違うところもあったけど、多分大丈夫だったんじゃないですか。」と大らかに言ってくれたので一瞬救われたように思えたが、総てが夢か現実か幻かの区別がなくなり、私は疲労困憊でフラフラ鎌倉へ帰った。その時、自分一人で帰ったのか?矢野さんたちと帰ったのか?全く覚えていない。
 そしてその夜、私は生まれて初めて蕁麻疹(ジンマシン)が体中に出て、一晩中苦しめられた。
 その時以来、私はファッション・ショーに関わったことはない。が、「ファッションショー」の人形劇をやったことが一度だけある。それは一九七〇年にNETテレビ(現・テレビ朝日)の連続人形劇番組の『アッポしましまグー』(人形操演・劇団人形の家)という朝夕十五分の五十五話目に、私は「亡霊とア・ラ・モードの巻」という作品を書いている。幸いその作品は好評だったので、私の中のトラウマは消えたように思える。
当時住んでいた都築元男爵邸 


 ファッション・ショーの失敗で打ちのめされて蕁麻疹の出た翌日。私は気分転換の為に、当時住んでいた笹目の都築家の迎賓館を仲間四人位と出た。そして由比ヶ浜通りに顔を出した時、長谷方面からノロノロ走る小さな黒い車を発見した。
「なんだい、あれ・・・?随分ゆっくりした車だな。あんなに遅いと、かえって危険だよ。どんな奴が乗ってるのかな・・・?」「まさか、婆さんなんてこたあ・・・」などと、こっちへ向かって来る小型車を見ながら話しているうちに、黒い軽自動車は近づいて来た。
 「婆さんじゃなく、中年の肥ってる男性が運転してるようだぜ。」車内いっぱいに広がって見える大きい男。車とすれ違う時小っちゃな赤ちゃんが見えた。車の横っ腹には『ノンコの車』と白ペンキで書かれ、その上、後ろには『笑うな!歩くよりましだ!』と書いてある。「誰だろう、こんな遊び心の持主は・・・?」
 「あっ!菊岡久利さんだ!」「なるほど!ガハッハッハッハッ」「クックックックッ」と思わず笑ってしまった。
 アナーキズムの詩人・菊岡久利さんは、青森県出身で、戦前の劇団東童にも作品を提供した人である。その久利さんも四十七才。車に乗せているのは、二人目の赤ちゃんノンコちゃん。今思えば車に書いた言葉は、菊岡さんの赤ちゃんへの愛情がにじみ出ていてほほえましい。宇野小四郎の家と菊岡家は隣同士(鎌倉市坂ノ下)だったので、コッちゃんと私は一度だけ菊岡家に招かれたこともある。
 突然、中村愛子が話し出した。「昨日あたし、あの車を『柴崎牛乳』の近くの小っちゃい自転車屋さんで見たわよ。多分、どこでも修理してくれなくて自転車屋さんに頼んだんじゃないのかしら・・・?」「なるほどね。」
 こんな会話をしてるうちにそのノロノロの黒い豆自動車ははるか遠くなっていた。

「♪カマカマカマ カマクラ いろんな人が町に住み ・・・文士なんかも住んでいる・・・」この唄は、一九五一年に発表された「カーニバル鎌倉の歌」の一節である。(作詞・菊岡久利、作曲・団伊玖磨)鎌倉市が製作したためか、いつも街に流れていた。

 あの頃の長閑な浜辺。それを象徴するような「ノンコの車」の小ささ、のろさ、そして温かさ。そこにはもう戻れないのが寂しい。

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