第5回   「宇野小四郎(コッちゃん)と『ひとみ座』誕生の頃」

清水浩二 Koji Shimizu


 コッちゃんについては、第三回「江田法雄」のところで、小山内薫『息子』でのトチリ談中で触れているが、併演していた寺島アキ子作『モルモット』二幕に関しては、江田が出演していなかった為触れなかった。ここで改めて紹介しておこう。演出と美術は私(渡辺信一)。初演は一九四七年(昭和二十二年)の秋で、劇団名は「ひとみ座」ではなく、「鎌倉青年芸術劇場」だったが、その時の資料がない為、一九四九年(昭和二十四年)の七月十六日夜の横須賀市民会館ホールでの劇団ひとみ座公演バージョンをここに掲載しておく。スタッフ・キャストの大半は初演と変わってないが、大金持の姪は乾多鶴子さんではなく、比嘉さんだし、書生は宇野家に下宿していた庄司龍ちゃんではなく鈴村君になっている。

※向って右奥(上手奥)にいるのが貧乏画描きに扮したコッちゃんこと宇野小四郎、当時19才。その左の女性はこの家の主人の姪役の比嘉令子(17才)、その左が主人で大金持の伯父役の私(筆者・渡辺信一、21才・・・この頃はまだ清水浩二の名を名乗っていなかった)、その更に左が、この家の家政婦役の中村愛子(22才)、そして一番左の顔を黒く塗っているのが書生役の鈴村健二(17才)。

『モルモット』主役の二人、
向って左から宇野小四郎、比嘉令子。

 横須賀市民会館公演の併演作品には、『息子』は出さずにチェーホフの『結婚申込み』の仙台弁版を出している。その内容については後述するが、この横須賀公演を「新かながわ」という新聞が取材に来て、写真入りで劇評も掲載してくれた。その要旨を紹介しておくと、―――「『モルモット』は演出もすぐれており、愉しく観られた。が、全く観客の動員がきかず客席がガラガラだったのは、観客動員に対しての積極性の欠如と思え。」と手厳しく批判されている。全くその批判通りで、欠如していたのである。したがって、終演後、その報いが忽ち顕われ、赤字補填の為、中村愛子と宇野小四郎に大きな散財をさせてしまい、劇団ひとみ座は解散に追いこまれた。そして私は親兄弟のいる仙台へ帰る決心をしたのである。
 ところで、仙台弁版『結婚の申込み』というのは、私が鎌倉青年芸術劇場を立上げる以前に、自宅の『耽美荘』で、江田の申込み者、後藤泰隆の申込まれる娘、そしてその父親の地主を私というトリオで遊び半分に演っていた物が原であるが、一九四八年の秋の終り近くに、突然、福島県郡山市の女子高校から上演依頼が舞い込み、慌て改訂、加筆し、娘のマルッ子さんを中村愛子、その父の地主・伝右衛門を私、そして同じ村に住む三十五才の独身地主の青井筋吉つあんを宇野小四郎で仕込み、『モルモット』と共に上演しに行った。するとこの『結婚の申込み』が、爆笑につぐ爆笑で、大受けしたのである。観客が女子高生で、一寸したことにも笑う年頃ということもあるし、郡山市の子も東北の子なので仙台弁が殆ど解ったこと。その上、演者が二十才前後の若者で自分等に近いことなど、いくつものファクターの相乗効果によって大好評だったのであろう。終演後、校長室に招かれると、破顔一笑の校長先生から「いやはや、良がった、良がった!この間、観せだ前進座の『ヴェニスの商人』よが、どんだけ良がったか知んねエ!生徒達があったに喜んだのって、おらァ初めで見だす。長年教師してっけど、今日ぐれえ、子ども達が喜んでる姿ば見んのは初めでだ。あんまり嬉しくって、おらァ涙が出ちまったよ。」―――この校長先生の言葉に劇団員一同も感激してしまった。〈素晴らしい観客って、こういう人達のことだ〉―――その時、そう感じたことは、今でも私の劇作りの原点になっている。因にこの郡山女子高での上演は、その年の六月に中村愛子、宇野小四郎と立上げた「劇団ひとみ座」による上演であった。その劇団ひとみ座も、前述の如く創立から一年少々で解散してしまったのである。

 「もう、鎌倉の夏の海岸ともお別れだな。」私は少々感傷的になって砂上を歩いていると、沢山の海水浴客の中から「おい、渡辺。」と私を呼ぶ声がした。振り向くと、そこには望月義(もちづきよし)さんがいた。新日本文学会(新日文)の小説家で当時36歳、奥さんは「たか」さんというエネルギッシュな女性だが・・・。先日、望月さんを良く知っている片岡昌の作品展(二〇〇二年十一月二十日〜十二月一日)に行った時、片岡に聞いた話では、
「望月さんは、とても頭の良い人で、昭和三十一年の四十三才になった時、『これから七年間は小説は書かずに金儲けをするんだ。』と言って、長ーいテーブルを作って、その上に長ーい紙を置きラジオの株式市況を聞いては、その紙に書きとめる。そして一週間たつと、それをグラフ化する。それからそれを眺めながら予想する。すると、その予想が的中し、七年の間には土地を買い、家を建て、残ったお金で一生遊んで暮らせるようになった、という・・・」
「良くそんなことが出来たね。運が良かっただけじゃないの?」
「いや、それがね、あの人、凄い記憶力なんだ。その上、凄い勉強家だから・・・」
「なるほど、そして五十才からまた小説を書き出したのか、心やすらかに・・・」
「そういうことですよ。」

一寸話が混乱しそうなので、一九四九年(昭和二十四年)の夏の由比ヶ浜海岸に話を戻そう。)
・・・「な、渡辺、田舎へ帰るんだって----?」
「ええ、もう二進も三進も(にっちもさっちも)行かなくなったので・・・・・」
「もったいないな。今までやって来たことから学び、もう一度チャレンジする気はないのか?」
「何かやるって言っても、お金がないし・・・・」
「金は天下の回りもの。それよりも、何かやりたいものの方が問題だぜ。何かないのか、やりたいもの・・・・?」
「うーむ・・・」
私は問い詰められて返事に窮してしまい、「お金があれば・・・人形劇でもやってみるかな・・・」と、口から出任を言ってしまったら、「わかった。それじゃ人形劇やってみるといい。少しの金なら出してやるから・・・いくら位あればいいんだ?」と訊かれ、「五千円もあれば・・・」と言ったら、「よーし、それじゃ、明日、俺ン家へ来い。」
 こんな風にして、何も考えてない私は翌日望月家へ行き、お金を貰ってしまい、人形劇をやらざるをえない破目になってしまったのである。

 プロの人形劇を観たこともないし、人形劇の台本を読んだこともない。その上、人形の作り方も動かし方も解らない。人形劇の舞台の作り方も知らない。でも、望月さんに「人形劇をやる。」と言ってしまい、お金も貰った以上、やるしかなくなったのである。
 このピンチにコッちゃんは心強い友人だった。何故って、コッちゃんだけが人形を作った経験者であり、人形操作の出来る人だったからである。
 私はコッちゃんに教わり、白浜研一郎氏の「人形劇入門」の書を読み、人形作りを始めようと思ったが、「待てよ、どういう人形劇を作るのか?レパートリーも決めなくては・・・」。そこで、私はなんとなく『ヘンゼルとグレーテル』をやってみたら・・・と思い付き、その人形作りと装置プランと台本作りを始めた。そして十日位して、ヘンゼル、グレーテル、父親、母親、魔女の人形がやや形を見せ始めた頃になって、私は自分の書いた上演台本を読んでガッカリした。少しも面白くないのだ。そこで近所にいた木村一鉱氏を訪ねた。一鉱氏は村山知義先生のお手伝いをやる傍、西康一、寺島アキ子夫妻がやっておられた劇団葡萄座の演出部の仕事もしており、葡萄座は人形劇もレパートリーの中に持っていることを以前に聞いた記憶があったので、「ね、一鉱さん、俺、人形劇やらないといけなくなったんだけど、何か面白い台本ない?」ときくと、「あるある。・・・こんなのは、どう?」と出してくれたのが、小山内薫の『三つの願い』だった。読んでみると、「面白いし、しっかり劇になっている。」そこで私は『ヘンゼルとグレーテル』を諦め、人形はメイクや衣装でなんとか変えて『三つの願い』をやることにした。

「三つの願い」上演風景

 だが、我々三人(中村、宇野、渡辺)だけでは演者が一人足りないし、営業の人もいない。そこで私は、間借りしていた坂ノ下の星月井戸のところの日下田(くさかだ)さんの奥にある村田さん家の元気そうなお嬢さんを早速口説きにお邪魔し、お母さんの快諾を得た。そのお嬢さんは、現在、藤沢で陶芸をやっている村田早禾(むらたさなえ)さんである。そして、営業には、木村一鉱氏を口説いて、仲間に入って貰うことにした。勿論、事務所とアトリエ、稽古場はコッちゃんの家にお願いした。今にして思うと、コッちゃんには随分助けて貰っている。後見人の伯母さまと、働いていらっしゃったお姉さんに叱られたり、色々なことも言われていたことだろうが、コッちゃんの口からは何ひとつ困った話は聞いていない。意地っ張りで、弱音を吐かない意志強固なコッちゃんのことを思うと、私は今でも彼に足を向けては寝られない想いになる。
 こうして、五名で誕生させた人形劇団ひとみ座は、八月、九月で『三つの願い』を仕込み、十月から上演活動を開始した。そして、十月、十一月、十二月の三ヶ月の間に江上フジ作『和尚さんと小坊主』、川尻泰司、山村祐合作『夢を見た大臣』の二本を新しく仕込み、上演した。十二月の下旬には、由比ヶ浜公会堂で三作品(『三つの願い』『和尚さんと小坊主』『夢を見た大臣』)を一挙公演した。その時、プークの演技者で『ファウスト博士』のメフィストフェレスを操作されていた大谷淳さんが見えられ、終演後、人形の使い方などを教えて頂き、その上手さに舌を巻いたことを、つい先日のように想い出す。
 年が明けた一九五〇年(昭和二十五年)になると、ボチボチと入団希望者が訪ねて来るようになり、木内赳(きうちたけし・彫刻家)、市川八郎(営業希望・ハッちゃん)、藤井八千代(演技希望)、細江豊、岡部美代子などが入団して来た。

 そして、レパートリーも伊東好子作『朱雀門の鬼』も加えて4本となり、そのうちの『和尚さんと小坊主』の人形を木内さんが木彫で新しく作ってくれたので、それと『夢を見た大臣』の二本を持って、一月下旬には伊豆方面へ旅興業に出た。網代、沼津、松崎、土肥、韮山、伊豆長岡、富士岡、三島と旅興業を続けた。

筆者のデザイン製作による『朱雀門の鬼』の人形を手にした宇野小四郎氏

 二月中旬の寒い夜に三島駅のホーム下の地下道で「鎌倉へ帰ろう」と列車を待っていた時のこと、余りの寒さにオーバーの襟を立てて足をバタバタしていると、恰幅の良い中年の紳士が酔っ払った感じでやって来て、コッちゃんに声をかけた。「おい、婆さん、寒いのかい?」長髪に蒼白い顔をした小柄で痩せていて黒いコートの襟を立て蹲(うずくま)るようにしていたコッちゃんは、無論返事をしない。酔っぱらいは、しつこい。そこで私は「小父さん、この人は婆さんじゃないんだよ。」と言うと、「ヘヘッ、酔っぱらってるからって、人をからかう気かあ・・・?」と言ったので「小父さんこそ、この人をからかってるじゃないか!この人はれっきとした男性だ。宇野小四郎という青年だよ。」このやり取りを近くで聞いていた木内さんが僕のところへ来て「あとは、僕に任せて下さい。」と言うので、お任せしたのだが、この木内さんという人、仲々したたかで、列車に乗って熱海に着くまでの間に件の男性と話をつけ、我々一同七名(清水浩二、中村愛子、宇野小四郎、木内赳、村田早禾、市川八郎、藤井八千代、)は、熱海の山上にある望洋閣という一級旅館に招待され、一泊することになったのである。勿論、ご馳走もお酒も出、代りに襖を横にしたケコミで、『和尚さんと小坊主』をお座敷上演。「やんや」の喝采を受けた。が、翌朝は件の男性の顔が気のせいか青ざめて見えていた。が、彼は、「お願いがあるが・・・実は私の家内が経営している幼稚園の子達に人形劇を見せてやってくれないかな」と言われ、私は言うまでもなく、二つ返事で引き受けた。この男性は、熱海の有名人らしく、昨夜列車を降り立ったとき、客案内に立っていた十人程の人達が一斉に「旦那!お帰んなさいまし!」と挨拶をしていた位だったが、私にはそのことよりも「うちの家内の幼稚園の子供達に人形劇を見せてやってくれないかなあ。」と言われたことに感動してしまった。私は上演を承知した時、"ノーギャラで見せて上げよう"と思っていたのだが、上演後、食事を出して頂いた上、上演料も頂き、大変恐縮してしまった。当時の私共にとって、それは素晴らしい恵みだったとも言えよう。もうあの小父さんは天国だろうが、時々会ってみたくなる人である。

思い出のキャラ図鑑 NINGYO NO IE ARCHIVES