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 「私の宝塚体験三景」  by 高山英男
 

  先日(2004年4月6日)NHKの「ふれあいラジオパーティ」に汀夏子、ペギー葉山各氏と共に高山先生が出演された。高山先生からは、宝塚ファンにもあまり知られていないようなことが語られ終始興味深い内容となっていた。もっとお話を聞いてみたかったとの声があるため先生にお願いし、このホームページに既発表原稿「私の宝塚体験三景」を掲載する許可を頂きました。

本文について:
  本文は「緑の手帖」2000年12月号に掲載されたもので、執筆者は子ども調査研究所所長であり、財団法人日本玩具文化財団理事、日大芸術学部講師も務める高山英男先生。内容は次の3つからなり、漫画王・手塚治虫先生との交流や、少年時代からの宝塚体験に触れている。
・「すきっぱら世代」から「飽食世代」へ−手塚治虫さんのメッセージ−
・宝塚歌劇最後の日
・「銀河鉄道」で出会った鎮魂の歌



「私の宝塚体験三景」     高山英男  Hideo Takayama

「すきっぱら世代」から「飽食世代」へ−手塚治虫さんのメッセージ−

 

高山英男先生近影
2004年3月撮影
 今から十五年ほど前のことだったろうか。関西出張の折、宝塚の大劇場に宝塚歌劇を観に行ったことがある。舞台がはねて宝塚南口駅の方に歩き、宝塚歌劇団の稽古場のある古い建物の前を通りかかると、そこに人だかりがしていて、テレビのロケをやっている。どうせ歌劇のスターの撮影風景だろうと思ってのぞき見ると、何とテレビカメラの狙う向こうに漫画家の手塚治虫がにこやかに立っているではないか。撮影が一区切りついたところで、思わず「手塚さん」と声をかけてしまった。すると手塚さんはとまどった表情で、僕を見つめている。一瞬の間があって、「えっ、きみ、高山さん?えっ、どうして?どうしてこんなところに?」と、何とも不思議な異物に出会ったという顔で、ぼくに問いかけるのである。
 
  「どうしてって、いま歌劇を観たかえりなんですよ。ぼくは子ども時代ここの近くで育ったんで、だから懐かしくって関西にくると時々観に来るんです。」
「あ、そうなの。ふーん、知らなかったな。ぼくもね、ここのすぐ裏山の御殿山で育ったの。だから、今日はテレビの『ふるさと探訪』とかに引っ張り出されてね。」
漫画王・手塚治虫のふるさとが宝塚であることは、周知のことである。それなのに手塚さんは、なぜか照れた表情で言い訳めいた説明を、ぼくにしてくれた。あのときの手塚さんの表情や口調を、ぼくは今でもくっきりと懐かしくよみがえらせることができる。あの時は、あんなにお元気そうだったのに、それから数年後、手塚さんは病魔に蝕まれ、一九八九年、昭和の終焉とともに遠い国に旅立たれてしまった。口惜しかった。
  手塚治虫さんが生まれたのは一九二八年(昭和三年)、僕は一九三〇年(昭和五年)生まれだから、手塚さんは二歳年上のお兄さんということになる。ぼくたち昭和ヒトケタ世代は、ちょうどいまの小学生や中学生たちのおじいいさんやおばあさんの世代である。ぼくが生まれた翌年に満州事変が起こり、小学校に入学した時に日中戦争が始まり、小学五年生の時に米英との戦火が開かれ、中学三年の時に敗戦を迎えた。つまりぼくたち昭和ヒトケタ世代の少年時代は、まるごと戦争の時代たっだということができる。
  手塚さんも僕も、中学生の時、阪神工業地帯の軍需工場に「勤労動員」され(若い男性はみんな兵隊として戦地に連れて行かれたので、工場には働き手がいなくなってしまっていた)。アメリカのB29爆撃機の空襲によって爆弾や焼夷弾が降りそそぐ中を逃げまどい、多くの知人や学友を失った。
  手塚さんは、『ぼくはマンガ家』という自伝の中で、黒焦げの死体がまるで焼けた人形のように折り重なっている地獄のような空襲直後の光景を描きながら、「もう結構。これはこの世の現象じゃない。作り話だ。漫画かもしれない。おれは、その漫画のその他大勢のひとりにちがいない。それなら早いとこ終わりになってもらいたい。」という心の中の叫びを記している。のちに手塚さんは「このときのショックを伝えるために自分はマンガを描いているのだということを何度も語っている。
  一九四五年(昭和二十年)八月十五日、日本は敗戦を迎え、ぼくたちは工場から学校に戻った。しかし焼け跡という都市の廃墟に立つぼくたちを待ち受けていたのは、ひどい物資不足、食料不足による恐ろしい飢餓地獄だった。ぼくたちは栄養失調でひょろひょろにやせて、食べものを求めて神戸の三の宮の闇市(正規の配給ルートに乗らない非合法の闇物質を売るブラックマーケット)をうろついた。翌一九四六年一月にぼくは父親の転勤のため横浜の中学校に転校した。そのためぼくは横浜の野毛の闇市と三の宮の闇市の東西の名門闇市を体験したわけである。
  一九七五年(昭和五十年)に、手塚治虫さんは自伝的な作品と言われる「すきっぱらのブルース」(「週刊少年キング」連載)という短編漫画を描いた。敗戦直後、「米をよこせ!」「腹いっぱい食わせろ!」と叫ぶ食糧メーデーのデモが荒れ狂う街頭で、漫画好きの大学生太宰鉄郎は新聞社に勤める若く美しい女性に自筆の漫画原稿を渡す。翌日、同じ場所に行くと、やせ衰えた男が倒れていた。餓死である。それから二ページにわたって、死骸が腐り、骨だけになっていく様を、手塚さんは憤りと悲しみを込めて描く。−−−恋破れた鉄郎が闇市の露店で買ったイモパンを食べながら通りかかると、人骨がまだそこにあった。「どうしてこう腹がへるんだ。いまから三十年先、腹いっぱい食える時代がくるかなァ・・・」と呟き、ふと鉄郎はしゃれこうべに向かってイモパンを一つ投げる。「食べなよ。」
  この「すきっ腹のブルース」のラストシーンは、三十年後に実現した「腹いっぱい食える時代」に描かれた、飢餓の時代の青春への鎮魂歌ということができようか。そして手塚治虫の作品に込められている戦争への断固とした「否」の意志は、ぼくたち昭和ヒトケタ生まれのすきっ腹世代≠ェ今日の飽食世代≠ノおくる共通のメッセージにほかならない。


宝塚歌劇最終公演の日

 前にも述べたように、関西の宝塚のすぐそばで育ったぼくは、子ども時代、宝塚の遊園地や少女歌劇に、両親によく連れていってもらった。とくに遊園地内の昆虫館の多彩な昆虫コレクションと歌劇の華麗な舞台のイメージは、今でも私の心のヒダに少年時代の原風景として焼きついている。
  私が小学生の時に日中戦争は泥沼化し、軍国主義の風潮が強まった。私たち小学生も、作文の時間に「戦地の兵隊さんへの慰問文」を書かされたり、一九三九年(昭和十四年)からは毎月一日の興亜奉公日に米飯の真中に赤い梅干を一つ入れた日の丸弁当を持参させたれたりした。(もっとも戦争が激化して食糧が欠乏してくると、日の丸の白地の白飯そのものが憧れの対象となったが)
  それでも私たちは、西宮球場に職業野球の「阪急−阪神定期戦」や夏の甲子園球場に「全国中等学校野球大会」を仲間と観に行ったり、宝塚のレビューを家族で楽しんだりして、日々を元気に暮らしていた。
  私が奨学四年生になった一九四〇年(昭和十五年)は、紀元二千六百年の年であった。しかし私にとってこの紀元二千六百年は、その皇国史観の「神の国」キャンペーンとはおよそ無縁に、お正月に家族で観た宝塚歌劇のイメージとして、記憶に刻まれている。それは月組公演の奉祝レビュー『すめらみくに』。トップスターの小夜福子が演じる日本神話の皇子は、神話絵巻からそのまま抜け出したような雄々しいヒーロー像として、ぼくをファンタジーの世界に誘った。また「遠すめろぎの」という難解な言葉を連ねた奉祝歌も、月組の出演者全員のコーラスに合わせて観客も唱和する華麗なフィナーレの思い出として、鮮烈に記憶している。


写真は筆者(高山先生)の子ども時代(1934年、4歳の頃)
  右手に機関銃、腰にサーベルの軍国坊也。神戸上筒井の玄関前で。この後、宝塚に近くの甲東園に移住、中学3、4年まで住む。

 「甲東園に住んでいた頃は近所の寺田弘くんと仲良しだった。弘くんのお母さんは、大正時代から昭和初期の頃に活躍した三好野秋子(みよしの あきこ)さんだった。三好野さんは宝塚での国内最初のレビュー"モン・パリ(吾が巴里よ)"にも出演していた。また、甲山の近くには、初音礼子(はつねれいこ・宝塚時代は初音麗子
)さんが住んでいた。初音さんは、宝塚のコミックスターで、退団後は新芸術座座長としてユーモアある役柄や、テレビに出て大活躍していた。(高山先生談)」

 

 ちなみに「 金鶏輝く日本の」で始まるもう一つの奉祝歌『紀元二千六百年』を、私たちは「金鶏上がって十五銭、栄えある光三十銭、はるかに仰ぐ鵬翼は・・・」と、子どもには無縁の煙草の値上がりを歌いこんだ替え歌にして盛んに歌っていた。
  この年、日本は独伊枢軸への傾斜を深め、米英との緊張は高まっていたが、それでも私には、六月に観た宝塚月組公演の『思ひ出の流れ』が忘れられない。この作品は、アメリカの作曲家フォスターの青春時代を描いた音楽器で、『マイ・オールド・ケンタッキーホーム』『遥かなるスワニー川』『ビューティフル・ドリーマー』『オールド・ブラック・ジョー』などのフォスターの名曲がふんだんに盛り込まれていた。ぼくはフォスターの曲が気に入り、父にねだってレコードを買ってもらい、盤が擦り切れるほど繰り返し聞いた。
  翌年、日米開戦とともにフォスターは、敵性音楽 となり、「近所がうるさいから」とレコードをかけることを父に禁じられた。私は「こんなステキな音楽がなぜいけないのか」どうしても納得できなくて、戸を閉めきってひっそりと聴いた。ぼくにとって『思ひ出の流れ』は、ミュージカル体験の原点ということができる。
  一九四四年(唱和一九年)、戦況は急速に悪化し、三月五日、「決戦非常措置」によって宝塚大劇場などの大型劇場は閉鎖させられた。三月四日の大劇場最終公演には、名残を惜しむ宝塚ファンが早朝から長蛇の列を作り、舞台の幕が降りても観客は立ち上がろうとせず、警備の警官がサーベルを抜いて解散させた、という話しは、私の住む隣組で語り草となっていた。
  この最後の出し物は「翼の決戦」。撃墜王の伊勢中尉を演じたのは、雪組トップスターの春日野八千代。中尉は敵機に体当たり攻撃をして基地を守る。その直後に移動演劇隊の一員として基地を訪れたのは、中尉の妹の圭子。圭子は亡き兄のために「銀の翼に涙あり」を切々と歌う。この圭子を演じた若手娘役スターの糸井しだれは、後で述べるようにぼくにとって忘れることのできない人となった。
  ぼくたち中学生も、尼崎の軍需工場に勤労動員され、勉強や宝塚どころではなくなっていた。五月、大劇場をはじめとする宝塚の施設は海軍に接収され、予科練(海軍航空隊甲種予科練習生)の訓練場として使用された。
宝塚音楽舞踊学校の少女たちと入れ替わって、そこで戦闘へのトレーニングを受けたのは、彼女たちと同年の予科練の少年たちだったのである。
  翌、一九四五年(昭和二十年)八月十五日、敗戦。ぼくたち中学生は軍需工場から学校へ戻り、宝塚歌劇団もすばやく活動を再開する。十一月に大阪・梅田の北野劇場で再演された『ピノチオ』の華やかな舞台を観ながら、ぼくは平和が訪れたことの実感をかみしめていた。『ピノチオ』は、原作が枢軸国イタリアの童話だったので、戦争中でも上演が可能だったのである。その一九四二年(昭和十七年)の初演でピノチオを演じた園井恵子(坂東妻三郎主演の映画「無法松の一生」で、吉岡大尉夫人を演じた実力派スター)が、丸山定夫ら新劇人の移動演劇隊さくら隊に参加して広島公演中、原爆で死んだことを聞いたのは、すっと後になってからだった。


「銀河鉄道」で出会った鎮魂の歌

 五年ほど前、NHKのFM放送の『日曜喫茶室』という番組に、ベテラン俳優の故・内田朝雄さんやドイツ文学者の池内紀さんとご一緒に出演したことがある。タイトルは『銀河鉄道一〇〇年目の夜』。宮沢賢治生誕一〇〇年にちなんで、賢治ワールドへの思いを自由に語り合うという趣向であった。内田さんは、晩年は映画やテレビドラマで悪役専門の個性的な役柄を演じた老優だが、知る人ぞ知る賢治文学の研究者。役者になる前から賢治に傾倒していたというから相当に年季が入っている。『私の宮沢賢治』『続・私の宮沢賢治』(農山漁村文化協会)と二冊の好著も上梓しているので、感心をお持ちの方は是非ご一読を。内田さん、このトーク番組放送直後に倒れられ、賢治の住む彼岸に旅立たれた。
  といっても今回ここで書きたいことは、座談会の内容ではなく、録音のためにNHKに出向いた折に偶然発見した戦前の宝塚歌劇で歌われた不思議な歌についてである。
  この番組の初めでは、ゲストに"子ども時代の文化体験"をしゃべらせて、それにちなむ音楽を一曲リクエストさせることになっている。前述したように、ぼくは子ども時代、宝塚のそばで育ち、母親に連れられてよく宝塚歌劇を観に行ったので、子ども時代の文化体験というと、宝塚で舞台化された「白雪姫」や「ピノキオ」や「子どもの四季−善太と三平」や「思ひ出の流れ」を思い出してしまうのである。
  事前の打合せで、NHKのディレクター女子は、ぼくのこの特異な子ども体験を面白がり、ぜひ宝塚の歌をリクエストしろという。そこで、ぼくが当時大好きだったフォスターの名曲集の中から一曲ということになった。
  当日スタジオに行くと、女史が「高山さん、探しても宝塚のフォスターの歌はないんですよ。同じ年の昭和十五年に糸井しだれという人が吹き込んだ『雲間の吊り橋』という歌があったんですが、これじゃだめですか」という。「雲間の吊り橋?聴いたことないなあ。昭和十五年は日米開戦の前年で、もう洋ものの舞台は少なくなっていたから、日本舞踊ショーの歌かなあ?とにかくそれ聴かせて」。音楽テープが回されて、なんだか聴いたことのあるメロディが流れてきて、あっと驚いた。
「え?これオーバー・ザ・レインボーじゃない!」
「あ、ほんとだ」
  一九三九年(昭和十四年)に、アメリカでは総天然色のミュージカル映画「オズの魔法使い」が公表され、その中で主演した当時十四歳のジュディ・ガーランドが歌ったハロルド・アーレンの名曲が『オーバー・ザ・レインボー』(邦題『虹の彼方へ』)である。本邦初演だったのである。
糸井しだれで、ぼくの記憶はふいと五十七年前にタイム・スリップした。 戦況が悪化した一九四三年(昭和十八年)の秋、早稲田大学の学生であった横浜の従兄がわが家に遊びに来た。あの神宮外苑スタジアムの雨の学徒出陣壮行会直後のつかの間の休暇であった。彼はこの世の見納めにと宝塚歌劇を一人で観にいった。観劇から帰ってきた彼は「この人かわいいでしょ」と一枚のブロマイドを大事そうに取り出してぼくにみせた。それは八重歯のかわいい糸井しだれという娘役スターのブロマイドだった。従兄はそれからすぐフィリピン戦線に送り出され、戦死した。あの糸井しだれのブロマイドを胸にしのばせて死への転戦を続けたのだろうか。糸井しだれは前に書いたように宝塚大劇場閉鎖の最終舞台で切々と別れの歌≠歌ったが、彼女もまた一九四五年八月終戦直前に三重県津市で空襲のために焼死したという。
糸井しだれさん
(寶塚歌劇雪組公演 歌劇「北京」プログラムより)
 
  賢治の『銀河鉄道の夜』では、少年ジョバンニが汽車の中で、川で溺死した親友のカンパネルラやタイタニック号で遭難した幼い姉弟の死者たちに出会う。賢治は、若くして病死した最愛の妹への鎮魂としてこの作品を書いたという。戦後五十五年の二十世紀の終わりに、銀河鉄道に乗って雲間の吊橋≠渡れば、従兄や糸井しだれさんや内田朝雄さんや手塚治虫さんや空襲で爆死した中学の友人たちに会えるのだろうか。

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