第8回  「アッちゃん(三井淳子)とタコちゃん(長浜忠夫)」
清水浩二 Koji Shimizu


 一九五三年(昭和二十八年)の七月、人形劇団ひとみ座初の劇場公演が、日本橋の三越劇場で行われた。演目は清水浩二作・演出の『イワンが貰った金貨を生む小山羊の話』ほかである。(現在活動中の劇団ひとみ座が発行した『ひとみ座五十年の歩み』には、清水と須田が一九五二年の初演から合作をした如く記されてあるが、間違いである。後年一部分加筆、修正してはいるが・・・)


「アッポしましまグー」のメインキャラ しましまおおかみといっしょの三井淳子さん

 この頃、三井淳子は入団して来たのだ。そして入団早々、『天狗のうちわ』(宇野小四郎作)でのタヌキの人形操演と『にわとり長者』(須田輪太郎作)の語り手を舞台前に生身で出て演じてくれた。以来、アッちゃん(三井淳子)は数々の作品に出ているが、彼女が出た主なものを挙げてみると、『寒さの森の物語』の主人公のイワン、『悪魔のおくりもの』の主人公ポポ、『マクベス』の妖婆1と門番とマクダフ夫人、レノックスなど、そして寺山修司作『狂人教育』の淫蕩な姉マユ。劇団人形の家に移ってからは、寺山修司の『人魚姫』の主人公マルドロール、『小さい魔女』の小さい魔女。芥川龍之介の『偸盗』の猪熊の婆、NET(現テレビ朝日)の連続人形劇『アッポしましまグー』のシマシマ狼などがある。ひとつ残念だったのは、超大作人形芝居『桜姫東文章』に事情があって出演出来なかったことである。
以上の他に、殆どの人は知らないかもしれないが、一九六〇年七月から連日放送されたNHKのアメリカ製アニメ『フィリックスの冒険』(一回五分)の黒猫フィリックスの声の演者がアッちゃんだったのだ。


  アッちゃんは、日暮里駅東口近くのテーラーの長女として生まれ、上野の高女を卒業した下町っ子で、よく「おだぁふく食べたいなあ。」とか「そろそろヤッコ(奴・豆腐)の季節ねえ。」などと言っていた頃を思い出す。だが、ひとみ座にきて一年位後にご両親が亡くなられ、弟さんと妹さんの三人で暮らすようになったと思っているうちに、今度は一年後位に妹の京子ちゃんが病死するという不幸に見舞われた。だが、その時すでに長浜忠夫君というマメな恋人がおって支えてくれているので、なんとかなったように思う。
 その好人物・長浜くんに私が初めて逢ったのは、ひとみ座が鎌倉市大町のやや小高い所に建つ伊藤成彦さん(当時は東大新聞の編集長で、その後、中央大学教授になられた人)の家を丸々借して貰っていた一九五五年のことで、場所は失念しているが、どこかの喫茶店であった。その時、長浜君は「食生活」方面の雑誌社に勤務していた。やたら真面目な若者で、二十二から二十三才位であったが、極度に緊張しているらしく、「日頃は吸わない」タバコをパッパッとやり、顔は青ざめ、手は小刻みに震え出す。声は甲高くてボーイ・ソプラノ的で、喋りは楷書風で、しかも熱っぽい。長くお相手していると疲れてくる感じ。でも、とても仕事熱心で、頭も悪くない薩摩隼人。その上、何事にもチャレンジして行こうとしていて意欲的だ。「いいじゃないか。」と私は思い、劇団に入って貰うことにした。入団は、翌年ということで、一九五六年初頭からである。関西から「入りたい」と言って来た藤岡豊と同期ということになる。

上の写真
長浜忠夫 氏

右の写真
伊藤成彦 邸

  長浜くんは、小さい頃からタコちゃんと呼ばれていたというので、劇団でも「タコちゃん」と呼ぶことにした。だが、このタコちゃんは、興味が一点に集中すると他が見えなくなり、ある時などはスポットライトの大きい500W球を踏んづけて割ったことも気付かずに、どこかへ行ってしまったこともあった。

  その頃劇団は大町の伊藤成彦邸から引っ越し、昔男爵だった都築家の迎賓館を借りていた。都築家は鎌倉市笹目町に3千坪の土地を持ち、母屋の日本建築の平屋建には都築家の方々、私たちはその隣の迎賓館に住んでいた。そこの二階の四十帖近いダンスホールと輝くシャンデリヤが今でもはっきりと浮かんでくる。

  タコちゃんは先述の如く一度何かに集中すると、時も所も関係なくなる傾向がある。
そのひとつに、NETテレビ(現テレビ朝日)に私が頼まれたドキュメンタリー番組の音が局のミスで出なかったことがあったが、その時私は自宅で見ていて、長浜君が局のトチリに怒り電話で担当者を罵詈罵倒したことを知らなかったが、あとで聞き「局へ電話をする前にどうして私に意見を求めなかったのか?仕事を与えてくれてる人を、相手がトチったからと罵詈罵倒するのは大間違いだ。」と怒った。そして局の方に詫びを入れた。タコちゃんは能力もあるし、一生懸命仕事をしてくれる人だったが、仕事がどういうファクターの集合体なのかは解っていなかったのである。
  そして、それと本質的には同じだが、形の違う騒ぎが一年足らずで再び起きた。
  草月ホールで『三人の詩人による人形劇』(岩田宏作『脳味噌』、谷川俊太郎作『モマン・グラン・ギニョレスク』、寺山修司作『狂人教育』)の時のこと。私は忙しかった為にタコちゃんに『狂人教育』の演出をまかせていた。その読合せ・録音の時である。出演者一同がスタジオへ入って十五分後位に、お父さん役の益田喜頓さんがスタジオから出て来て、外へ向かわれた。
驚いた私は呼び止めた。「喜頓さん何かあったのでしょうか?」「はい、私はミスキャストのようなので、帰らせて頂くところです。」「どんなことか具体的にお話していただけませんでしょうか?」「私、今まで長いこと、この世界でやって来ましたが、あの演出の方のような事を言われたのは初めてです。あの方が私の役の台詞を言い、『今、私が言ったように言って下さい。』と口真似を命じられました。」「そ、そんなことを言ったんですか、彼は・・・!」
  余りのことに私は呆然となった。すると喜頓さんは「私は私なりのやり方でここまで来ています。それしか私には出来ないのです。それを承知で使って頂いております。私の台詞の言い方がお気に召さなければ、他の役者さんにお願いして頂くしかありません。私はこれで・・・」



「狂人教育」録音の際、旧草月会館ロビーにて撮影
左より益田喜頓、寺山修司、清水浩二 の各氏

「ちょ、ちょ、一寸お待ちください。これから五、六分時間を頂いて彼と話をし、彼に謝らせますから・・・彼のやったことは間違っています。少しの間、この藤岡とお話でも・・・」
そして私は、長浜を呼び出し、「喜頓さんに謝れ。タコちゃんは間違ってる。どう間違ってるかの説明はあとでする。もし、謝らないのなら、僕が演出する。屁理屈は言わず、率直に謝ってくれ。喜頓さんは我々の大先輩だ。それに君が正しいと思ってることが、本当に正しいかどうかも解らない・・・と、そういう風に考えることも君には必要だぜ。さあ、俺と一緒に喜頓さんのところへ行って謝ろう。」
結論を言えば、タコちゃんは謝り、喜頓さんは戻ってくれ、無事仕事は出来た。
 このあと、何年かして私は「ひとみ座」にサヨナラし、長浜くんもそれから三年位あとに「ひとみ座」を辞める。そして長浜は、私と「ひとみ座」を辞めた藤岡の創立した「東京ムービー」というアニメの会社に入り、演出をするようになる。また、長浜夫人のアッちゃんも旦那と一緒に「ひとみ座」を辞め、私の始めた「劇団人形の家」の設立に参加し、前記のような活躍をしてくれた。
ただ、口惜しいことに、長浜くんは、一九八〇年十一月に四十九才の若さで他界した。お葬式の日、私は長浜家をたずねた。今その日の光景が急に蘇ってきた。浮かんでくるのは、長浜家の客間にある「人魚姫」(劇団人形の家の第一回公演で人形デザインは宇野亜喜良氏)の大きなモノクロ写真。きっとアッちゃんが、記念に写真を引き伸ばしたのだろう。だがこの写真以外は何も飾ってない。アッちゃんの芸歴は長く、数々の大作にも出演してきた筈だ。今思うのは、「人魚姫」は彼女にとって他人に見せてもいい一番の作品だったのかなあ・・・ということだ。

  そのアッちゃんも、ある春の日に上野公園に立つ薩摩隼人に散りかかる桜の花びらのように散ってしまった。もう、その時から十一年もたっている。

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