思い出のキャラ図鑑

 
第20回「ロサンゼルスの思い出2
  ゲーリー・カーツ(Gary Kurtz)さん
  フランクトーマスさんとオーリー・ジョンストンさん
  池内辰夫さん(池ちゃん)と大塚康生さん」
 
清水浩二 Koji Shimizu


1. ゲーリー・カーツ(Gary Kurtz)さんのこと

筆者が描いたゲーリー・カーツ氏のスケッチ  今回のトップは、サッちゃんとは対照的な暗い人の紹介から始めよう。映画"リトル・ニモ"の総指揮・プロデューサーのゲーリー・カーツ(Gary Kurtz)さんである。
  カーツという人は、"アメリカン・グラフィティ""スター・ウォーズ""スター・ウォーズ帝国の逆襲"(脚本・監督ジョージ・ルーカス)や"ダーク・クリスタル"(製作・監督ジム・ヘンソン)等を手がけたビッグネームのプロデューサーだが、丁度この頃はディズニープロの"オズ(Return To OZ)"の仕事中で大半をロンドンとニューヨークで過ごしていた。だからロサンゼルスには一ケ月に一度、それもお昼から二時間位しかいない。
左は筆者が描いたゲーリー・カーツ氏のスケッチ

カーツさんは、セル・アニメの仕事は初めてだと話していた。だから壁いっぱいに貼られたイメージ・スケッチを見ても「これは好き。」とか「もう一寸。」とか四枚か五枚位には言うが、残りの物には一言もなく、アニメーターや絵描きの質問には何も答えず、風のように去って行く。後で聞いた話では、スケッチに「好き!」とか「もう一寸」とか言って行くやり方は、ウォルト・ディズニーのやり方と同じらしい。だが、ウォルトを知る人にきくと、「ウォルトは、描いた人が納得出来るような言い方を具体的にしていた。」という。カーツとウォルトはスタイルは似ているが本質はちがうらしい。

 また、スタッフからも次第にゲーリーのこのやり方への不満の声があがり始め、藤岡氏もそれを無視出来ない状況になっていったような気がする。

 残念ながらゲイリーは神さまではなかった。しかし、"ニモ"の前に彼が製作した"ダーク・クリスタル"はアメリカでは成功していたし、「いい映画だ」と私も思った。そう言えば、私は彼のサイン入りの"ダーク・クリスタル"のポスターを藤岡さんや池内さんなどといっしょに貰っている。それは今でも私の書斎に飾ってある。

 "ダーク・クリスタル"という映画は、"セサミ・ストリート"のジム・ヘンソンと"スター・ウォーズ"のゲーリー・カーツが組んで"今までにない映像"を目指した傑作である。人形劇のプロ演出家として五十三年のキャリアを持つ私が脱帽するこの映画の出演者は、手遣い人形、着ぐるみ人形、棒遣い人形、糸操り人形、それにキリンよりも長くて細い足のランドスライダーなどは曲芸師を長い足の骨のような物の上に立たせて歩く着ぐるみで、お金がなくては出来ない映画とも言えるが、人形のデザインがイギリスの妖精や幻想画などの一流イラストレーターのブライアン・フロード(Brian Froud)で、抜群の出来だったし、人形の作りも凄く、目の輝きは本当に生きているようだし、体は呼吸し、欲望や感情も充分持っていて、斬れば血の出るような生物に見えていた。その存在感は圧倒的なものであったと言えよう。


2.フランク・トーマスさんとオーリー・ジョンストンさん

 このゲーリーに比して"白雪姫"や"ピノキオ""ファンタジア""101匹わんちゃん大行進""ピーターパン""ロビンフッド"や"ミス・ビアンカ"などでおなじみの大先輩アニメーターのフランク・トーマス(Frank Thomas)さんは、いつもニコニコしていて穏やかで温か味のあるお年寄りで、一緒にいると幸せを感じてしまう程である。特にトーマスさんの奥さんは日本の方なので、お宅へお邪魔した折などは、まるで自分の家に帰ったような感じであった。

 もう一人のオールドアニメーターのオーリー・ジョンストン(Olli Johnston)さんは、トーマスさんほど社交的ではないが、いわゆる"SLおたく"で、自宅の広い庭には人間の乗れる小型のSLや客車などをお持ちで、それに乗って楽しまれる姿には万年少年の面影を見ることが出来、とても温かさを感じた。オーリーさんのお宅を訪問した人たちから「我々がSLに乗りたいと言えば嬉しそうに乗せてくださった」と聞いている。私はそのようなステキなオールド・アニメーターのお二人にお会い出来、同じ時空を共有出来た幸せは、今思い出しても胸が暖かくなる。

※追記
九月十一日(二〇〇四年)の朝刊で、フランク・トーマスさんが天国に召されたことを知った。八日に私もうかがったことのあるご自宅で召されたとのこと。享年九十二才。あの温厚なお人柄は私の中で消えることはないだろう。

  右画像はフランク・トーマス氏の思い出を振り返りながら筆者が書いたスケッチ。
3.池内辰夫さん(池ちゃん)と大塚康生さん

 まず、当時東京ムービー新社の常務取締役の製作部長だった池内辰夫さん(池ちゃん)のことだが、私の知る限りでは、池ちゃんは中国生まれで、九州大学仏文科を卒業されたエリートで、かつ終戦近くには海軍兵学校にもおられた人なのだが、なぜか気が弱く、とても人の良いところのあるダンディーな紳士でもあった。

 その上、仲々ユーモアのセンスがあり、面白い人でもある。一例を上げると、ロスの有名なジャズスポットの"ザ・ベークド・ポテト"(The Baked Poteto)に新人の増田信夫君などと一緒にライブでジャズを聴こうと行った折、入口にいたマスターに池ちゃんは「Good evening」と挨拶すると、このマスターは「今晩は」と日本語で返して来た。池ちゃんは「あれ!あれ?どうして日本人と思ったったの?私はアメリカ人ですよ。」と言い返したりして、笑いを取っていた。

 こういう面白い池ちゃんであり、楽しいこと大好きの池ちゃんなので、休みが2日、3日続く時などは、アニメーターの人達や通訳や私なども誘われて、サンタバーバラやソルバングのデンマーク村などへ遊びに行ったり、サクラメントの方へも行ったりしている。あっ、そうそう、ソルバングには一泊しているし、その仲間には演出の高畑勲さんも参加していた。


サンタバーバラの古い修道院で撮影
向かって左より
当時東京ムービー新社の製作部長だった池内辰夫氏、筆者
オランダ村にみんなで遊びに行った時の写真
デンマーク村にみんなで遊びに行った時の写真
向かって前列左が演出の高畑勲氏、
その後ろのサングラスをかけているのが筆者、
後列一番右側にアニメーターの大塚康生氏、
前列右にいる女性は通訳の山本樹理さん。

 それと一寸話は変わるが、さき程の「ザ・ベークド・ポテト」に一緒に行っていた増田信夫君はまだ大学生だったが、頭が良く話合いなどをすると仲々シャープで驚くほどだが、運動神経は並以下で、車に乗せて貰ったことがあったが、私は怖くて二度と乗らなくなった。そうして1ケ月もしないうちに信夫君は、フリーウェイ(高速道路)から下の道路に転落し、怪我をしてしまった。でもご心配なく、今もロスで元気に働いています。

 さて、次は謎だらけな大塚康生さんに移るが、この大塚さんという人は、語学の天才で、色々な国の言葉を知っているし、喋れるアニメーターさんである。また、筆も達者で本も出されている。
  私がロスの仕事場で会った時などは、余り長話はしないで、アッという間にどこかに消えてしまう。スタジオ内を捜しても、誰に聞いても「さあー?」「知りません」「でも、少ししたら帰って来ますよ。いつでもそうですから・・・」
  なんだか年取って丸くなった牛若丸のような人である。かなり他人のことは観察されていて教えられることも多い。とにかくユニークで実力があって「我が道を行く」というフットワークのいい飄々とした大人(たいじん)である。「大人(たいじん)は赤子の心を失わず(孟子)」―大塚さんのためにある言葉のような気がする。



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