特別寄稿
等身大世界の一つの超えかた―清水浩二の人形劇 寺山修司

 ぼくらは舞台の上に、等身大の人間が現実を複製復元するということにもうあきあきしてしまっている。人間のスケールを超えた、等身大ではない世界、それが本当の現実なんだけれども、人間はいつのまにかすべてこの世は等身大だと思いこむようになってしまってきていて、そういうものに対して一つ疑問符をさしはさむことが、最近の人形劇に顕著にあらわれてきている。
 それは人形劇という一つの分離したジャンルとして、というよりむしろ演劇という形のジャンルの中ではっきりとあらわれている。外国でも、たとえばマーボマインというグループは、親指くらいの大きさの人形しか出てこないテーブルの上の演劇を観客が見ていると、それをのぞいている客の後に人間の二倍くらいの人形がいっしょにのぞいている、という表現をしたり、「パンと人形」という政治的な演劇をやるアメリカのグループの人形劇なんかは、ビルディングくらいの大きさの人形どうしが街の広場でぶつかりあって戦ったりして、それを見ているのもまたみんな人形だったりして、なにか人形と人間との概念のとらえ方が従来の人間の代用品としての人形じゃなくなってきたという印象を受ける。
 そういうものの一つとして清水浩二の人形劇を考えるとき、当然従来の人形劇のように人間の代用品として一つの異化効果をねらうような、復元され複製された小型の人間たちのドラマというふうなものではなくて、まったく等身大の世界を超えた人形劇であるんだけれども、ところがその人形のサイズを具体的・物理的なモノサシで測るときには、そんなにとてつもなく大きいものや小さいものは出てこない。
 清水浩二の感性の特質というのは、どちらかというと男の子的なとらえ方というよりも、女の子的な世界表現のとらえ方にある。
 男の子的なとらえ方というのは、ガリバー旅行記のようなスウィフトのとらえ方で、つまり、小人国へ行ったり巨人国へ行ったりという形で、マーボーマインや「パンと人形」の人形劇もそのような傾向のものだといえる。
 それに対して女の子的なとらえ方というのは、胃袋の奥がそんなに深いはずもないのに何百メートルもあったり、目玉の大きさは何センチしかないはずなのにそれを持ってみると地球より重かったりするという、つまりアリス的世界といえるのかもしれない。
 見た目はまったく等身大のようにみえながら、その内部の空間がまったく等身大を倒錯しているというところが、清水浩二の人形劇をはじめて見たときからの驚きだった。だから外側から世界のサイズを変えていくというものではなく、一旦人間の代用品のようにみえながら、内側はとてつもなくちがったサイズをもっていて、そういう形で従来の代用品としての人形を超える---ぼくが最初に「マクベス」(演出・清水浩二、人形、片岡昌)をみてびっくりしたそんな印象は、形を変えてずっと引きつづいて生きている。
 そういう意味では、ちがった種類のマニエリスムというか、ちがった形のシュールリアリズムというか、ひじょうに不思議な魔術師的な感性の持主が、清水浩二ということができる。

遊戯と禁欲と <寺山修司の戯曲について>  篠田正浩(映画監督)

  私は、よく、寺山修司の作品が非難されるのを聞くことがある。その多くは、彼に思想がないというのだ。そして、時々、私は寺山修司から、俺には敵が多いよと、嘆くのを耳にするのだ。嘆くといっても、彼の異様に光る眼の奥には不敵な笑いをのぞかせているのも確かである。私は、彼の作品に思想がないと一度だって思ってみたことはないし、敵が多いということも考えたことはない。彼にとって最も悲劇的なことは、彼の作品には思想がないと一度だって思ってみたことはないし、敵が多いということも考えたことはない。彼にとって最も悲劇的なことは、彼の作品には私小説風の実生活から全く遠去かった所で成立している高踏な世界を目指していることである。彼にとって主張すべきことは、己れと他者との関係にあるのではなくて、常に言葉の発見であり、言葉と言葉とが対立し、交合し、陵辱し合うことによって起る不可知の世界への旅行にある。そのためには、今まで、彼は、己を語ることを決してしてなかったのである。いわば、遊戯の心をもて遊んでいたのである。彼は、人並以上に、言葉を愛したためであり、言葉こそ、彼を楽しませる唯一の性器でもあるからだ。彼が愛する言葉を求めて彼は破廉恥なほど浮気を試みる。シナリオ、競馬、戯曲、そして時に短歌、ラジオ、テレビ、人生相談、ホメロス張りの叙事詩、小説。こう振り返ってみると、彼、寺山修司は、全く言葉のランナーであることが容易にうなずけよう。如何にも貪欲な体躯に旺盛な食欲で、寺山修司は<物>を食べ言葉を排泄して来たのである。そのために、彼は、或る意味で非難の的でもあったのだ。しかし、近頃、彼は演劇にその宿を求め始めたようである。芸術というと大袈裟になるが、芸術とは、限定された空間の創造なのだ。演劇という限定空間に、身を置くことは、とりもなおさず、作家の厳しい禁欲に身を置くことであり、限りないイメージを如何に定着させるかという苦行と立向うことになるのだ。寺山には、そのための才気と勇気はあり余る程もっている。長い長い言葉のランナーから、真に彼の見た地獄を、私は息をひそめて眺めようと思うのだ。戯曲こそ、彼の本性の発見に彼自身の思想を物語る証となろう。

現代の不安の担い手 <宇野亜喜良のイラストレーション> 栗田勇(美術評論家・作家)
 
普通、宇野亜喜良は、甘美な叙情的なデザイナーと思われがちだ。しかし、そのような主観的姿勢、自分の叙情を対象におしつけるような態度は全くない。むしろかれは対象を直感的に分析し、そのなかにひそむ叙情を探りあてる。あとは、かれ独特の料理があるばかりだ。
 宇野のその力は、けっしてローマン的な叙情への侵入から得られるものではなく、実は批評的意識を除いて他にない。ここでいう批評意識とは、まず何よりも自己の発想の地点において、自覚的に自分をみることを意味している。このさい、自分の中の状況と時代を見ることになる。真の時代的センスとは、自分の外側に歴史や風俗をみることではなく、自分のうちに見ることにある。宇野の第二の特質ともいうべき時代的感覚は、実はこのようなかれの内面化の才能によって保障されているのである。
 彼のイラストの空間には体系がない。充足した意味や、当てこすりや比喩や、思わせぶりな絵ときのためのパロディは全くない。かれのイラストは常に語り残すことで雄弁になる。すなわち埋めつくされない空間、体系的に完結していない空間は、それをみるものがはいりこみ、作り出していかねばならない。これが、一種の叙情的戦利ととなって、人の心を把えてやまないし、またエディトリアルなかれのイラストが常に本文に何かをつけ加える秘密ともいえよう。かといってかれのイラストは、いわゆる偶然性に委ねられた荒々しいものでは全くない。むしろ古典的といってもいい端正さがあるが、さっき言ったように、秩序だった体系的という意味では全く古典的ではない。不信の徒として、かれはまさに現代の不安の担い手といわざるをえない。
 おそらく宇野亜喜良は現代の最高のイラストレーターの一人であるばかりでなく、戦後日本の美術史に大きな足跡を残すであろう。

批評としての"ゲキバン" <林光の舞台音楽に寄せて>   福田善之(演出家)

 このあいだ、林光がぼくにむかって「きみたち演劇人」というようなものの言いかたをしたので、ギョッとした。ぼくはきわめてウサンくさそうな顔をしたから、テキもおぼえているかもしれない。
 つまり、ぼくは林光も「演劇人」であるとおもいこんでいた。なんせ、芝居のたぐいを企画・立案し、ときには台本も書こうという。演出はまだのようだが、時間の問題であろう。出演のほうは、いまのところナレーター程度だが、やがて大島渚あたりが主役にくどき落すかもしれない。そうそう、大島たち「映画人」は、これも林を「映画人」とおもいこんでいるにちがいない。
 考えてみれば、いやほんとうは考えてみなくとも、林光はまず「音楽家」である。かれの「純音楽」の業績をちかごろのことばでいうなら、かけねなしの「超一流」。にもかかわらず、林光はさきごろまでぼくも参加していた演劇の運動のなかで、つねにその中心にいた。実質的に指導者のすくなくともひとりであった。ぼくはかれにみちびかれて、あるいは暗示されて、さまざまの仕事をした。
 おそらく、上の文中の「にもかかわらず」は「だからこそ」におきかえるのが妥当なのである。林光の眼中に、ジャンルの区別などありはしないのだ。要するにかれは芸術家であり、人間であって、それ以外のものでない。かれがけっして「ふるさと」を忘れず、批判的であることによってもっとも愛国的であるのは、いわばナショナルであることによってインターナショナルであり、インターナショナルであることによって、ナショナルであるという当然だが困難な課題を、一身にひきうけつつもっとも原則的に実践しているにすぎない。
 つけ加える。かれが控え目な、いわば「劇伴(ゲキバン)屋」として、舞台、映画、テレビに参加することも多いのは、もちろんである。ゲキバンとは、つまり伴奏音楽だ。しかし、その場合でも、かれはやはりかれであって、すこし注意すれば、かれの「劇伴」が「劇」にたいする言葉の正しい意味での「批評であることに気づくはずである。かれが「運動者」であることをやめることはない。

辻村氏の仕事  飯沢匡(劇作家)

 辻村氏は私が十年以上やっている海外向け人形絵本のスタッフの一人として協力して頂いている。まえ「ブーフーウー」や「ダット君」などのNHKテレビの人形製作についても、氏の手腕に負うところが多かった。
 この間、新宿の画廊アルカンシェルで辻村氏の個展があった。私はそれを見て辻村氏は人形のビアズリイだなと思った。ビアズリイはひところ日本でも大いに騒がれたが、最近西欧で再評価されつつある。あの竹久夢二などにも強い影響を与えた英国の画人だが、その夢二から日本には叙情画という一つのジャンルが出来た。辻村氏の初期のものには叙情的な面が強かったのではないかと私はひそかに思っている。
 しかし、今回の個展を見ると叙情的世界をつきぬけ、もう少し悪の世界に踏み入ってるのが現代的だと思った。それで私はビアズリイだというのだが、一つにはこれは宇野亜喜良氏という、よき伴侶を得たからかも知れない。
 宇野氏の人魚姫のデザインを見て、これを果して立体化することが出来るのかと危んだが、辻村氏は見事にそれをやりこなしてしまった。これには、ほとほと感じ入ってしまった。
「人魚姫」が成功するならその功績のかなりの部分は宇野氏のデザインとそれを人形化した辻村氏のものと私は考えるのである。このような宇野・辻村の両氏のコンビを持つ、この「人形の家」は強力だと私は確信する。